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2019年11月21日木曜日

「待つ」


皆さんこんばんは日橋喩喜です。

寒い寒い冬、いかがお過ごしでしょうか?私はというと最近は積極的にコンテンツ消費に努め、日夜DVD を繰り返し繰り返し見る日々です。

最近はサミュエルベケットさんの『ゴドーを待ちながら」の系譜を受け継ぐ作品を見ていくのが趣味になっておりまして、例えば鴻上尚史さんの『朝日のような夕日をつれて』や、ケラリーノサンドロヴィッチさんの『ゴドーは待たれながら』、 小説で言うと太宰治さんの『待つ』なんかを毎日毎日繰り返し読んでいます。

二十歳を超えて初めて、待つということがこんなにも感情を動かす行為なんだと体で納得し、待っている間、言い知れぬ不安がぼんやりと私の脳裏に浮かんできます。

自分が待っている「人間」がやがて来るということは、インターネットを発達して今は確信していられるわけですけれど、形のないものを待っている間というのは来るのか予測しかできないから、とてつもないほど徒労的ですよね。

例えば山師の皆さんにとっての宝くじや万馬券 。そういう即物的なものでなくても、幸運というもの 。宗教的に言うと、救済という名の大いなる幸せ。

それはいつになったら私を救いに来てくれるのでしょうか?

そういうことを考えるとだんだん眠れなくなって、ヒントを求めて何度も何度も繰り返し小説や舞台を見てしまうのです。

散らかった机の上を何度も片付け何度も散らかしたりしながら、私は延々と待ち続けることになるのでしょうか?

いったい私は誰と何をどこでどうすることを約束したのでしょう?
私のことを待ってくれている人はいるのでしょうか?
あるいは私が誰かを待ってるのでしょうか?

こうやって今書いてあることというのは、全て無駄な時間であって、これは私のもとに何か自分が待っているものがやってくるまでの暇つぶしにしか過ぎないのかもしれません。

皆さんはカゲロウという虫を知っていますか?

その虫は23日で死んでしまうと短命で有名なのですが、口や食物をとるのに適しておらず、お腹のほとんどを卵で埋め尽くされています。

つまり、カゲロウという虫はごく短い時間の中で生命に与えられた「次の命へつなぐという生き物の運命」を 全うしているのです。

つまりは、カゲロウという虫が、生き物の最小公約数に思えて仕方がないのです。カゲロウという虫はおそらく待つことはないでしょう。待つ間もなく次の命へバトンをつないでいかなくてはならないのですから。

かげろうのように、待っている間もなく生き物としての運命を全うする生き方か、人間のように、自分の命が永遠に続くという錯覚から長い時間をかけて待ってしまい、感情を動かされながら生きていく方が良いのか。

そういうことを水曜日には考えてしまいます。

そして、寝る前にはストレスが溜まっている時にはカゲロウのことはこの上なく嬉しく思い、 vtuber の放送を見ている時には人間のような生き物でよかったなあとしみじみと結論を出すのです。

そういう気持ちをいつか詩にしたためて、メロディをつけて大もうけしたいと思いました。